デニムーグと呼ばれたシンセサイザーの話。
そのシンセサイザーの存在は日本国内はおろか、世界各国の音楽史を振り返ってみたところであなた方が認めることは恐らく不可能であろう。それが表舞台に出てきたことは無いからだ。
オリジナルであるムーグシンセの音色に憑かれたある日本人の技術者の男は、その音を初めて耳にしたその日より寝ても覚めても音色を忘れることができず、結果、男の耳および脳はムーグシンセの音を除いたこの世に存在する一切の"音"を受容することを拒絶した。
これは決して男自身が望んだ事態ではなかった。彼はほぼ全ての音を失ったのだから。
男は自分が立たされた窮地を咀嚼しきれず、結果自分が発する言葉をも失ってしまった。
当時、男には既に結ばれてから10年以上になる妻と、年齢がまだ二桁に至らない娘がいた。
突然の夫の変化に妻はうろたえることなく気丈に振舞ったが、状況を理解し得ない娘の方は何度呼びかけても反応しない父親に次第に失望を覚え、心を閉ざしていってしまった。
円満だった家庭、とりわけ彼の周囲は次第に沈黙と言う名の重圧に侵食されていった。
娘は母親とのみ言葉を交わし、無音に耐えられなくなった父親は書斎に籠もり、ムーグシンセの存在を広く大衆に知らしめたドナ・サマーの曲に耳を傾け続けた。
その曲のタイトルが「I feel love」であった事実は皮肉としか言いようがあるまい。
そのような生活の果てに、男は楽器屋で大枚を叩きムーグシンセを購入してきた。
男は唯一の"音"の所在を求め、昼夜を問わずそのアナログシンセを弄り続けた。
自分が聴き取る事ができる唯一の音。いくつものツマミを回し、鍵盤を叩き、その音の変化を楽しむうち、失望に染められていた彼の表情に生気が戻りつつあった。
いち早く男の変化に気付いた妻は、ムーグシンセに彼の回復の可能性を見出し、家庭生活における意思伝達の手段にこのアナログシンセを用いることを試みたのだ。
最初は喜怒哀楽といった感情のみであったが、次第にその音色は系統化されてゆき、妻の努力もあってか簡単な日常会話レヴェルの意思伝達が可能なまでになっていった。
音色の使い分けを駆使することにより、筆談よりもエモーショナルなコミュニケーションがそこでは実現されていた。夫婦はゆっくりと失いかけていた絆を取り戻していった。
しかし、彼らの娘はその光景を目の当たりにしても、父親に対して再び心を開こうとはしなかった。開こうとしてもできなかったと言う方がより正確であろうか。
親の愛情を求めていた時分に親から拒絶されたという事実はそれほどに娘の心を深く抉っていたのである。両親、とりわけ父親は再び娘に振り向いてもらえるよう、あらゆる努力を惜しまなかった。技術者としてのセンスを生かし、娘に適したよう設計したムーグシンセの模造品を完成させ、また全ての元凶である奇特な症状の回復のためのリハビリテーションも決して怠らなかった。しかしそれらも無駄な努力に終わった。
娘が再び父親に対し笑顔を向けることを望んでいたのは父親自身のみではなく、その思いはむしろ母親の方こそ強かったのかもしれない。母親は諦めなかった。
彼女は自分の言葉で、自分にも言い聞かせるように、娘へと語りかけた。
自分の声帯から発せられる、自分の感情のありのままを含んだ、「声」という"音"で。
頑なに閉ざされていた娘の心ではあったが、母親の声がその扉を開く鍵となった。
いつの日からか、娘は父親の書斎にはにかみながらも足を踏み入れるようになった。
食事の時に、父親と目が合っても気まずくならなくなった。
両親の意思疎通を助けている、ムーグシンセの存在に興味を持つようになった。
「何も怖いことなんて無い」。母親は娘に対してそう言い聞かせてきた。
そして娘は決意をした。この楽器を使うことによって、ママと同じようにもう一度パパと気持ちを通じ合わせることができるのなら…両親が優しく見守る中、彼女は恐る恐る鍵盤にその小さな手を乗せた。
一度は崩れかけた家族に、再生という名の日差しが当たろうとしていた。
危機に直面した家族、そしてそれに抗うためのあらゆる努力。
それはまさにシナジー(synergy)を超越したシンセシス(synthesis)であった。
だから我々はこの家族の努力そのものを一台のシンセサイザーに形容できるのだ。